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おばあちゃんのお葬式

おばあちゃんが亡くなった。

小学生の頃はよく遊びに行っていたし、父のお姉さんがおばあちゃんと同居されていて、娘さん2人(従妹姉妹)とも歳が近く交流があった。

葬儀はとても異様だった。

お経を唱える方がツバメスーツ。パンツがグレーのストライプ。楽団員か何かですか?と目を疑う。

お経を上げている対象がどうやらおばあちゃんでは無いらしいことに後々気が付く。

おばあちゃんの位牌やら遺影のある祭壇上部に掲げられていたのは短めの巻物。

何やら中央には仏像的な絵が神々しく描かれていて、その周りを囲むように筆文字がずらずらっと書き連ねてあった。

ツバメスーツのお偉いさんっぽい方が、とてもとても丁重にその巻物を撤去、収納し終えるまでの間も止まないお経。

親族側の席で唱えているのは父と、喪主である父の兄と彼の奥様。

対岸の席では5名程の見たこともない男性陣が盛大に唱えていた。

しかもお経が異様に長い。長すぎる。

後方に居た一般の参列者の方々、おばあちゃんと親交のあった近所の方々は吃驚だっただろうなと思う。わたし達が相当吃驚だったのだから。

告別式の途中で父のお姉さんが旦那さんと参列されているのを確認し、わたしは非常に嬉しかった。参列されないかもしれない、と覚悟していたからだ。

お姉さん夫婦は出棺のあとはそれっきりだった

おばあちゃんの骨を骨壺へ納める儀式に居合わせたのはわたしら三姉妹と母と父、喪主夫婦となぜかあの男性陣。

どうやら彼らは父と父の兄の宗教仲間らしい。この場でも事或る毎にお経を上げている。

おばあちゃんの死から4日経ってからの葬儀。正直、おばちゃんの姿は変わり果てていたし、顔色も酷かった。

…なのに興奮気味に「とっても軽かった!」「柔らかかった!」「とっても白かった!」とおばあちゃんのご遺体の状態を語る彼ら(特に父)には「おめでたい人たちね…」という感想しかわかなかった。

母が言っていたが、お仲間を呼び寄せる都合で、この日取りだったらしい。

父と叔父は葬儀後のお食事会で、ブツブツと自分たちの姉の悪口を言っている。

親不孝だ、普通あり得ない、などなど。(どのお口が?とツッコミたい衝動を堪えていた。)

まぁ来てくれただけ良かったね、なんて嗤っていたが。

その場に居ない人間の陰口を言う大人は大嫌いだが、とにかくわたしは叔母の悪口が非常に耳障りだった。

(叔父の挨拶は傑作で、おばあちゃんのこと何も知らないのがよく伝わって来た。話に織り込むエピソードは病院や施設での話のみ。ほんとうに疎遠にしていたんだね…)

 

なぜ叔母が、実の母親の骨を拾わずに帰ったのか。

長い間同居し面倒を看(ざるを得なかっ)た実の母の骨を。

 

喪主である長男が全ての原因らしい。

おばあちゃんが病気で倒れ、実家では過ごせなくなってしまってから8年もの間、叔父が病院や施設を手配し、おばあちゃんの世話を買って出たらしい。

それまで一切実家に顔を出すこともなかった叔父。わたしはほんとうに一度も会ったことが無かったし、この葬儀が初対面だった。

叔父はかなり好き勝手やっていたらしく、最期くらいは親孝行しないと、という言い分だったらしいが、叔母は事実上実母を奪われたことになったのだ。(兄弟間の事情についてよくは分からないのだけれども…)

そして、そんな兄に付き従う弟。

叔父は東京住み。父の方が断然おばあちゃんの施設に近い位置に住んでいる。

にもかかわらず、父はほとんどおばあちゃんの世話をしにも会いに行きもしなかった。

ほんの数度だったらしい。せめて、東京の兄が金銭的負担をしているのだから、父はもっと様子を見に行って看てあげて、兄に報告なりしてあげるべきだったのでは?当然じゃないのか?と、母はずっと首を傾げていた。(母は、老人は施設に入れてしまえと言い張って世話の一切をするつもりのない父の考え方がほんとうに無理だそうで、自分の親だからと要介護の祖父母をできる限り自宅で看ている。お風呂などは危険なので、デイサービスも利用しているが、最期まで自宅で過ごして欲しいという願いもある。ヘルパーの資格も取っていて、ほんとうに母はすごいんだ…!全てに賛同である。)

そんな母に連れられて、わたしもそれなりにはおばあちゃんに会いに行っていたし、幼少期以降は長らく会えていなかったこともあったので、正直お別れは辛くなかった。葬儀中に声を上げて泣く父の姿が恥ずかしくて仕方なかった。

 

わたしは叔母が大好きだった。理由は単純。

彼女のお人柄や物腰の柔らかさに憧れたのもあったが、何より、我母の夫に対する愚痴をいつも親身に聞いてくれて、こんな弟でごめんね、ごめんねと言ってくれる、唯一の父方の理解者でもあったから。

当のお姉さんもほんとうに昔から弟2人に手を焼き苦労されていたらしいことは幼いながらもよく理解していた。おばあちゃんがとっても甘々な母親で、末っ子の我父をとりわけ甘やかして育てたということも聞いていた…ずっと悩まされてきたとか。

悩みの種は特に宗教。

お兄さんと弟が同じ宗教に入り、癒着。

その宗教というのが、まぁほんとうにここに記載するのも躊躇われる類の宗教でして。

敢えて明言は避けますが、母と結婚する際、その宗教からは足を洗うことを条件にした程に受け入れがたい宗教だったのです。とはいえ、結局婿入り後間も無く約束は破られたわけですが。

父の愚痴ならいくらでもありますが、強烈だったものだけいくつか。

 

・私が生まれて間もない頃、喧嘩中だったようでお互いご機嫌斜めの父と母。父が母に「鉛筆取って」と手を差し出したのに対して、母が鉛筆の先を向けて「ん!」と渡すと、父はブチ切れ、母の手を掴み渡された鉛筆を母の手に平にぶっ刺したのですよ。なぜこのエピソードを私が知っているかと言えば、小学生のころ、母の手のひらに小さく黒い痕があるのに気が付き、ほくろとはまるで様子が違うので訊いたんです。20数年経った今でも跡を確認できます。

 

・私が幼稚園に上がったかくらいの頃、毎晩のように目にした、父が母に詰め寄り罵声を浴びせ続ける光景。もちろん手も出す。泣いて必死に母を守ろうとする私…身体の小ささと力の及ばなさを悔い、後に筋トレ少女になった原点はここかもしれない。

 

・家族で食卓を囲むと、必ず癇癪を起こす父。ちゃぶ台返し、最悪でした。特に炬燵の季節は汁物も布団にぶっかかり大惨事。食事中くらいしか会話の機会を持たない引きこもりのくせに、話題が不愉快だと「飯が不味くなる!!」ですよ、それしか言えんのかいと幼心に毎回呆れかえって居ました。そうしていつの間にか、ひとり自室で食事を取るようになった父。配膳も片付けも母ですよ。「餌をやらないとまた夜中に嫌がらせをされる」と仕方なしに続けてきた習慣。さすがにわたし達姉妹も自ずと母の協力をするようになっていましたが、どこのキムジョ〇イルだよ…って、家族みんな「ジョ〇さん、ジョ〇さま、ジョ〇イル」と陰で呼ぶようになっていました。(嫌がらせとは騒音だったり、しないでとクレームがあったことをわざわざ行うなど。迷惑だからやめて、と訴えること自体が弱みになる仕組みです。どこの国家主席だよ…こんな小者、家族の誰も相手にしなくなったのは自明。当然の成り行きだろうと思う…)

 

・私が小学生のころ、新居が建ち、そのベランダでひとり「えーん…えーん…どうして私ばっかり…!」と少女のように泣きじゃくる母の姿。父は子供の学校行事にも授業参観にも運動会にも地域のゴミ拾いやドブさらいにも何にも協力しない。おじいちゃんが代わりに出てくれるなんてことがざらにあり、祖父は有名人レベルでした。めちゃめちゃ母を助けてくれました。母のあの涙の理由を詳しく確認したことはないけれど、父のせいだなと秒で悟った当時のわたし。

 

・受験生の頃、自室で切羽詰まって受験勉強に励んでいるわたしをよそに、廊下挟んで向こう側の奥の自室でテレビ大音量に手叩きしながら大爆笑の父。さすがのうるささに頭きてブチ切れ「うっせえ!!怒」と言いに父の部屋のドア前へ。言い放って去ると後ろから血相を変えて詰め寄る父、そして平手打ち。思いっきり頬を殴られた、アムロみたいだった。あの暴力だけは未だに根に持っている。

 

・極め付け、おじいちゃんの葬儀に出なかった父。実の父親の葬儀に出なかったのですよ。理由はお通夜で会ったおじいちゃんのお兄さんに気に食わないことを言われたかららしいです。棺になんでも入れてくださいと言われて父が入れたのは樒。おしきび、今回のおばあちゃんの棺にもわんさか入れることになったのだけれども、祭壇にお花が一切なく、樒だけだったのはちょっと宗教色を感じました。話を戻すと、おじいちゃんのお兄さんは、弟の棺に樒なんか入れる馬鹿野郎だと甥を罵ったらしいです。それが気に入らなくて「坊さんの下手なお経なんか聴いてられっか!」とひたすらお坊さんに会いたくないから参加しないと言い張って葬儀に参列しなかった父。当時わたしは小学生でしたが、さすがに父を改めてキチガイ認定しましたよ…。(このエピソードも父は声高にお兄さんに語ってましたよ、今回の葬儀の食事会中に。母は呆れかえってました、何度話したら気が済むんだろうね、ずっと根に持ってて小者過ぎると。)

 

 

葬儀の後で母がお姉さんに連絡を入れ、せっかくだから少し話せないかな、と提案。母はおじいちゃんの仏壇にお線香の一本でも上げたかったが、ファミレスで会うことに。かなりしぶられたようだが、会ってくれることになりわたしも安堵。

叔母さんは相変わらずお綺麗だったが以前よりはかなりやつれた様子だった。

叔母さんが仰っていたことは以下。

 

・もう自分は他人、長男にお家のことは全て委ねた。関わるつもりはない。

・次男の存在がどうしても思い起こされてしまうので、わたし達と会うのも正直辛かった。

・葬儀に来た時、みんなもしかして宗教に入っちゃったのかなと不安に思ったけれど、立ち居振る舞いが違っていて、そうじゃないんだなと安心した。

・おばあちゃんは昔からそう、みんなにいい顔をする人なんだよね、だからこの葬儀だって…。

・兄の後ろに引っ付いてちょろちょろしてるのは相変わらず。みんなはおかあさんのことだけしっかり面倒みてあげるんだよ、あんな弟看なくていいから。

・弟のお世話してくれてほんとうにありがとうね、ほんとうに申し訳ない…。

・きょうだいは仲良くね。

 

わたしたちは父を父とも思って来れなかったし、彼の老後や死後まで面倒看るつもりは毛頭ない。

しかし、お姉さんのキモチを想うと涙が止まらなかった。ずっと同居して面倒を看てきた実母を、全く関わろうともしてこなかった遠くの兄弟に奪われたキモチ。

それを彼女は穏やかに、ただただ受け入れている。真似出来ないと思う。

 

信じるモノが違おうと、絶対に関わりたくない宗教団体との接触だとしても、おばあちゃんとの最後のお別れができた、叔母さんなり、わたしたちなりのせいいっぱいの振舞い方で。

お経は一言も唱えなかったし、適宜手を合わせたくらいだったし、ほぼ硬直しておとなしく、ツバメスーツ楽団のみなさんの勤行を音楽の如く聞き流していた。

特に何の感情もなかった。彼らからしたらきっとわたしらの立ち居振る舞いは不満だったろうけれども。

 

 

おじいちゃんとおばあちゃん、同じお墓にも仏壇にも並べないらしい…

家族ってなんだろう?改めて色々考えさせられた。もう、こんな感想しか出てこない…

 

今年のGWはずっと実家で過ごしたが、帰るとき、おじいちゃんが「ずっといたらいいんだねーの?帰られっと困るなぁ…」と珍しく引き留めてくれたのを思い出す。

ここ2年間ほどは出来る範囲で帰省し、ちょっとした手助けではあるが、じぃやばぁのお世話を買って出るようにして来たのだが、こんな単発でもほんとうに大変だ。

毎日毎日じぃばぃのお世話、そして無能な父の世話もこなす母、末の妹よ…ほんとうにありがとう。

2人の苦労には及ばないかもしれないけれども、わたしもわたしなりに、じぃばぁに対して悔いないように会って関わっていくよ。

家族のお世話ってほんとうに大変だよ。わたしは自分一人を世話するのさえ大変だ。

 

父はいい加減、世話されている『当たり前』の有り難さを自覚し、猛省すべきだ。

死んでも無理だろうけど…