好きなものがわからない、感動できない
感動できる感性を失ったことがあるか?
感受性…とは少々性質が異なるような気がするのだが、
何かに心動くこと、興奮できること、感情が溢れ出す事、全部当たり前過ぎた。
それがあたりまえで無くなったとき、生きていることの理由が見当たらなくなった。
おなかが空く、おそらく食事が必要だ。しかし、食べたいものが思いつかない。
コンビニへ行って出来合いのもの、お菓子、何でもいいから食べられそうなものが無いか見に行っても…ひとつも食べたいものがない。ピンと来ない。何も口にしたいと思えるものが無い。ひとつもない…
好きだった食べ物も、アニメも、タレントも、何もかもピンと来ない、ワクワクしない、心が…こころが無反応になっている…(参照までに^^;↓)
この感覚(状態)は多分、実際に体感しなければ、恐らく…想像もつかない感覚だろうと思う。
感覚というものが曖昧でよくわから無い…というおかしな、不安定な、心細いようなふわふわとした感覚…、感覚が無い感覚??(なんだかパラドックス的な表現になってしまう…)
しかしある時、ふとなにげなく自分の腕を掴んでみたそのときに、
「腕だ、腕がある、わかる、触れている、腕だ!!!」…と体感し実感し、自分の実在を大いに認識できたことがあったのだが。そのときの異様な感動をよく覚えている。
それはまるで、ずっと長いこと地面すら踏み締めることなく、彷徨い漂い続けた精神が固体に舞い戻ったかのような感覚だった。(地に足着いてない←)
きっとそれまでのわたしは、自分の存在もあやふやにしか認識できずに死んだように生きていたのだと思う…。(千と千尋の神隠し冒頭で千尋が透明になっていくシーンが重なる…)
そんな体験を経て個人的に考えたことが、「触れる」という体験が「生きている実感」につながるのだろうな、ということ。
物理的に触れる・触れられる、心に触れる・触れられる…そういった体験の積み重ねが、「今、生きている!自分が存在している!自分は実在している!」という実感に大きく関わっているんだろうな、、、という…
想像。してみたり、思ったりしたもので…はい。
実体験からの経験則?みたいな…なんとなくの見解でしかないけれど、きっと学術的な研究とかもあるんだろうな~とは。
唐突だが先日、生まれて初めて心療内科を受診した。
脳波を測る検査を受けて、健康な人との差異について解説を受けた。
結論から言うと、わたしの脳は健康ではなかった…。
個人的な感想ではあるが、測ってみたら多くの方がきっとこんな感じの波形なのでは???くらいの…やや正常に欠ける波形だと受け止めた。(単なる強がり的な受け止め方かもしれないが…ちょっぴり脳が疲れてるんだ、くらいに受け止めている…健常者とかけ離れた鬱病患者という自覚は正直皆無!わたしだって割りと正常な社会生活がんばれてるよ?みたいな…^^;)
検査については思っていたより簡単で楽チンだった。
検査室に通されてイスにゆったりした姿勢で掛ける。
机上に左手を乗せると指にクリップ的なものを付けられ、自律神経を測定。
頭部に装置を付けられる。その間モニターで検査の流れの説明を受ける。
眼前のモニターの画面の中央「+」マークに視線を固定しながら、
「あ・い・う・え・お」…繰り返し
アナウンスから流れてきた頭文字で単語を連発する多分4個くらいお題の頭文字与えられた気がする…3個だったかな…辛うじて覚えているのは以下^^;
「?」
「?」
「せ」セミ、せり、せせらぎ、閃光、仙人、洗濯物、…
「お」おにぎり、おかず、…おなら!、ぉ…雄鶏!(単語が思い浮かばず動揺して視線が泳いでしまって、しまった!!!と思った…)
「あ・い・う・え・お」…繰り返し…
たったこれだけの検査だったが、自分の脳波の動き方をグラフで見せてもらえて、どう異常なのか詳しく教えて貰えたのはとても有意義だったと思う。
それと、担当の医師がたまたま、そういう方だったのかもしれないが、終始、わたしの言葉を遮らないようにゆったりとした、且つ弱いくらいのやさしい感じの、ガツガツ探ってこないスタンスのカウンセリング?をしてくださったので、とても印象がよかったし、「治療は有効と思われるが、いつからでもはじめられますので…」と、治療を強要しない感じもとてもありがたかった。
先生には自分の身に起こったこと全てを話したわけではないが、今回受診しようと思った経緯、月経困難症と月経周期で定期的に不調が起こり毎月ふつうに過ごせる期間が1週間くらい(俗に言うキラキラ期)しかないことを検査前の診察時にある程度訴えたのだが、、、検査結果はわたしの自覚する諸症状に矛盾しないもの、とのご見解。鬱認定されてしまったが、そっか~やっぱりね…という感じで、特にショックでも無く…。(過去記事⇓)
とりあえず検査だけ出来てよかったなとは思っている。
とはいえ、心療内科とかにかかって、医師から「鬱」と診断を受けてしまったら、自分が鬱だと認めざるを得なくなる、というのが怖かった…。(アレルギー検査を受けて、花粉症と診断を受けるのを拒む、気合で自分は花粉症ではないと思いたい人…みたいな感じで?)どうしても今まで受診する気になれなかったのだが…。
「セカンドオピニオン的な感じで~、検査だけでもやってみたいな的な軽い気持ちで~」 今回受診できたのはとても大きい。
≪帰国~現在までの心身事情≫
2013~2014
@国外、満身創痍、精神的ダメージの繰り返し、日照不足の実感…
帰国半年前から血尿、痔、彼氏依存、帰国直前ルームメイトからの手紙に戦慄(衝撃波自分史上最大)
2015
精神的不安定、鬱っぽい、強迫観念?(引き続き彼氏依存?遠距離になってしまったので、3コール以内に電話でろとか縛る洗脳被害的なのもあったり…)
2016
1代目彼氏との別れ、職場で毎月倒れ早退(生理)、頻繁に「死にたい…」が口を付いて出る(癖レベル)
2017
2代目との別れ⇒縁結びの神社へ参拝⇒現職へ、嫌な同僚2人立て続けに退職⇒明らかに日々の動悸が減る
2018
部署替え⇒精神は割と快適、でも仕事的に波乱の一年、生活リズムが安定しない、不眠…且つ家族問題(身内が次々に病院送り、中には裁判沙汰も…、年中波乱過ぎた。。。)
2019
精神快適、不眠減る、twitter依存?ネット上のトラブルも経験…軽い戦慄(動悸)3回くらい経験…
以上、唐突に自分史みたいなこと書き連ねてみたけれども…
ここ(かおするーむ)で自分の頭の中のゴミ(?)をぽいぽいしてきたことは、多分、よかったのだと思う。今年2019年にTwitterにハマったことも「訓練」の側面からするとよかったのだと思う。
わたしは限られた字数の中で、「的確に」「簡潔に」「要領よく」発言することをたくさん勉強できたと思う!(つきあってくださった方々に感謝しかない…泣)
アホみたいなことを言うと…わたしの人生は20で一度終わっている。
(参照までに…^^;↓)
今大学に通っているのも「老後の楽しみ」「生涯学習」くらいの…緩いスタンス。
高校時代からずっと隠居生活が夢だったし…俗な社会生活の中に身をおきながらも、きっとご隠居は出来るはずだ…ぐらいの感覚で。
馬鹿野郎!と言われてしまうのだろうし自分でも思うのだけれども、…親に感謝…ねぇ、、、って結構思ってるとこある。
なにか、根本的「当たり前」を揺るがしかねないことを言う事になりそうだけれども
わたしはなぜ生き永らえねばならないのだ?
わたしという人物は一体なにをすべきなのだ?
なにか使命でもあるというのか?そんなの、自分で勝手に使命感に酔いしれるものだろ
こんなどうにもならない悲劇ばかりのこの世で生きていく理由って何よ?
でも…死ぬってとてつもなく面倒くさいことだよね…
自分が死んだ際に家族にかかる負担やリスク迷惑を思うと死ねない。返還完了してない奨学金とか、その他のローン支払いとかとか…絶対投げ出せない。だから死ねない。
そんな感じで生き長らえてるな…、程度のキモチだった…ずっと。
おかげさまで今はそこまで投げやりではないが、まだまだ「生」に執着できてないところはある。
多分なのだが、例えばひとつなぎの大秘宝って結局何?博士じゃないなら黒幕って誰?律ちゃんはいつ恋に落ちるん?刺青人皮ってどうなんの?…みたいな、死ぬまでに結末を知りたい連載とかいっぱいあると死ねないよね。
多分重要なのは…この世界を、おもしろいとか、興味をもてるとか、そういう接し方が出来るか如何……なのだと思うんだな。
少しずつ、少しずつだけれども、ここ2年くらいでようやく自分は「自分」という存在を改めて引き留めているし、在るなって思えているし、生き長らえるコツというか、そういう自分におあつらえ向きの環境を獲得して来れたんだと思う。
ほんとうは処方されるべき薬があったかもしれない、受けるべき処置があったかもしれない。でも、いっかい、いっかい、ひとつ、ひとつ、そのときの自分が納得の行く選択をしながら、ゆっくり、ゆっくり、ここまで生き延びてきたから…。
先のことはわからないけれど、あんまり具体的に不安を思い描かずに、、、、今目の前にある自分と関わってくれている世界をしっかり見つめよう、って思う。
おしまい。