かおするーむへようこそ

口語、語調不揃い、雑多、グチグチ…etcご容赦いただける方はようこそ…

死ぬことと見つけたり?末期癌の祖父は…

母がおなかを痛めて産んでくれて…

ほんとうに辛い思いをして苦労して育ててくれて……

こうして今もまだ生きている「わたし」という存在。

 

母は、「とにかく子供がほしかった」と何度も言っていて…父親との結婚は正直後悔しかないが、子供がほしかったから…と幼少期から聞かされてきた。

しかし、とても残酷なことに…、そんな母に対して

「あんたなんて生まれてこなければ良かったのに…!!!って台詞が頭から離れない、ハッピーバースデイって本があるんだけど、小学生のときかな、それ読んでて思ったんだよね、なんで母親が娘にそんなこと言うんだよ、勝手に子作りして授かっといて。あんたら夫婦がやることやった結果存在してるんじゃん。親の身勝手な意思で存在させた存在に対してなんてこと言いやがるんだ……って頭きたんだよ。生まれてきたくて生まれたわけじゃねぇぞ…生まれちまったからやむを得ず生きてる、そんな子供だっているでしょ…。わたしもたまに思うわ…。」

とつれづれなるままに持論を語ってしまったことがある。…多分ハタチそこそこの頃だったかと。

(少なくともお母さんには)望まれて生まれてきたのに…ごめんね、とは、ひとことことばを添えたけれど、生きるって難儀だ…というわたしの愚痴を静かに受け止めてくれた当事の母よ、今更だがほんとにごめんね…ありがとうです…。

 

ハタチの頃、

人生初の挫折と屈辱と無力感を一身にドカンと引き受けなければならない状況に陥った。それはきっと程度の差こそあれど誰もが経験する通過儀礼的なイベントとも言えるだろうと思う。

そんなときだ……「もう死にたい、どうして生きているんだ…なぜ生まれてしまったんだ!!!」と自分の生きている理由を呪い出したのだ。

もうハタチなのに、成人なのに、オトナにならなければならないのに……まだお荷物でしかない!生きていても何の役にも立たない、何も出来ていない、成せていない…!!!そして、何かしたい始めたいとすら思えず、それまで掲げて来た目標すらも失ってしまった。

その掲げてきた目標を見失いかけている、手から零れ落ちているような実感があった。

すごくぶっとい、ゴンブトな生きる目的があったはずなのに、確かにあったハズなのに……もうそれにすがれなくなっている自分に気が付いた。


現在、「死ぬ」ということについて嫌でも考えなければならない状況に身をおいている。身内が最期を迎えようとしているらだ。

そこで、前世とか来世とか、そういう発想もちょっと参考に想定してみたり…している、妄想程度に。

考えたくないわけではないし、むしろふとしたときに考えてきたし、みんなそうじゃない?くらいの感覚で、でも普段はあまり必至に考えることはしないかな…みたいな議題。

だって答え出ないから…。

足りない頭でいくら考えたって、鈍感な精神で感じようとしたって、たかが知れている。

しかし、この、今、「わたし」として自身を意識出来ているこの感覚が、自覚が、死んだあとでまたいつか、こうして「わたしだ」と再度発現する日がくるのかなと思うとなんだか怖い…という感覚をずっと抱えてる。

また繰り返すの!?

みたいな感覚…。永遠…ってやつじゃんwwwって思う。

肉体が滅んでも、「このわたしが今自覚している意識」を意識としてまた自覚する日が来るのなら、記憶は失うとしても、「生」を繰り返してしまうんじゃん…っていう。

(この怖さの感覚…言語化できてるのかな…伝わらなかったらわたしの力不足なので…はい。)

個人的に、この「意識の再発現」とても嫌……記憶も伴っていてほしい。どうせ繰り返すのなら。

今、こうして意識している「生きている」「存在している」というこの感覚…生まれる以前の遥か昔にも、同じように自覚できていて、そして死んだ後の遥か未来でも…この自覚という感覚を味わわなければならないの?

永遠が過ぎる…、

永遠が過ぎるよ~…!!!

叫びたいよこのエンドレス「生☆命」!!!!!

 

死ぬという現象を怖いとは思うけど…ほんとうに怖いと恐怖できる状況に身を置くこともせずに「怖い」と言うのには生ぬるさしかない。

もっと命の危機に直面して、「あぁ…死にたくないよ、もっと生きて居たいよ…」と寂しく悲しくなる機会があったらきっと『死んでもいい』なんて言えないんだろうけど……

安直な言い方にはなるが、死んでみたいなとは思う。興味はある、死後の「この意識」の行方。興味本位で軽々しく言っている感じが既にアウトが過ぎるけれども…『ちょっと死んでみる~☆』とかして、またちゃんと『死んできた~!!!死後の世界わかった~こうだわ!』ってコンビニ感覚で臨死体験?とか死後の状態が経験出来たらな~という考えはある。希死念慮とか死にたい願望ではないので悪しからず…。


「意識が無くなる」とか「遠のく」とか…ほんとうか?ほんとうに「意識」は消えるのか?

世界や宇宙へ解けて行ってしまうものなの?肉体を構成する物質の終わりはまぁ、なんとなく「消える」「解けていく」ように見えなくはないけれども。(よく考えると…在り続ける、という気がしなくも無い。)

存在してしまうこと、生まれてしまうということ、これは一体…!?

(著名な哲学者さんの死生観やご説明いくら読んでも、結局どうなの!?ってなる…エンドレス「生☆命」)

お金もそうなんだな…価値の値段というのはどう生じて、全体としてはどこまで管理されている!?循環されてる?一定を保ってきたの?みたいな…果ての無い、はじまりと全体の特定できない存在。や、お金のはじまりと全体数はもしかして特定できるかもしれないけど…(出来るんすか?w)

 

 わたし、あんまり死に対して敏感になれていない…ので、

最期を迎えようとしていながらも、(あからさまではないながらも)必死に生にしがみついている身内(祖父)の気持ちがまだよくわからない…

 

ーどうしてそんなに死にたくない?

 

 祖父の長寿願望の強さは家族もよく知っていて。

だから、「はぁ(もう)先が無いもの…しゃーあんめ(仕方がない)…。」などと本人が発言しても、「(何言ってんのよ…誰よりも長生き願望強いくせに…!口で言ってても内心は違うってわかってっかんな…‼‼‼)」と母が常々呆れているのも理解できてしまう。それでも、祖父が色々と考えながら日々を過ごしているということも母はちゃんと認めている…。

お気に入りのシャンプーじゃないと風呂に入らない、とか言うもんだから親族総出で東奔西走して探し回って…生産終了しているが、取り寄せで在庫を送ってもらえることになったり……。

祖父、結構とマイペース、&こだわりも強く、穏やかだけどとっても頑固なので……なかなかに家族は振り回されているけれども。

でもそれでも、最期を迎えるまで、出来る範囲でとことん尽くそうと、親族みんなそれぞれに頑張っている。

 

死ぬのが怖い、とか本人が喚いているわけでは無く、弱気になっているどころか寧ろ「家で死にたい。だから退院したい。」ってリハビリもすごく頑張って、すごく前向きに過ごしている様子なんだけれども、いつとも知れぬ命……病室のベッドの上で一人死の時を想像したらきっと怖くなるだろうなとは思う…、わたしも怖い。

死ぬときはわけ分からなくなるから大丈夫らしい。そのときは必ず来るけど、身構えて息苦しくなっても、焦っても仕方ないんだろうな…とは考える。

 

 

 

 祖父はこの世界…というか、じぃをとりまく世界を愛して、生まれたことに感謝し、人生を楽しみ、欲という欲も正常に持ち合せて生きてきたからこそ、生に執着するのかな…。

母が言うには、「欲深い」からだよ!って。笑

まぁ、そういうところあるかも。商売やってたし。

 

結論、煩悩こそ生きる活力じゃないか?